「本当の自分」とは
「本当の自分」とは何か。それはどこかに存在している「核」のようなものではなく、自ら作り出すものではないだろうか。「自分がどうありたいか、あるべきか」これが「本来の自分」と呼ばれるものであり、理想のことである。ただ、その理想を考えるためには、現在の自分である前に、そもそも自分はどうだったのか、どうしたかったのか、を過去に遡って考える必要がある。どんな出来事のために、何に苦しんでいるのか、何がうれしいのか、そうしたことを省察する必要がある。そうして得られた自己認識に基づきつつ、あるべきすがたをクリアに思い浮かべられるようにする。何が障害となっていて、自分の可能性を止めている原因を模索する。
心の中の怪物について
得体のしれない怪物が心の中に住み着いていて、それが私に絶え間なく暴力をふるうのだとすれば、私には勝ち目はきっとないだろう。しかし、その怪物の正体を見極めることは私にはできるのではないだろうか。そのことで、問題が胡散霧消するわけではないとしても、現実は少しも変わらないとしても、そのとき私はそこに光を見出すことができるだろう。現実は暴力的だ。この圧倒的な暴力に晒されながら、自分を律することができる人はまず存在しないだろう。理性は結局は自分の無力を思い知らされるだろう。しかし、認識の努力を怠らないことは理性にはできる。理性には自分を脅かすものの正体を見極めることができるはずであり、この精神的態度こそが、勇気であり、克己節制なのではないだろうか。
真理について語る言葉
個々の経験の本質を言葉で捉え、これから起こる出来事について見通しを立てる。そこから個々の経験を超えた真理について人は語ろうとする。だからあらゆる思想の出発点にあるものは、個別的な経験である。真理について語ることは、しばしばもはやその先にいかなる新たな経験もないことを断定するかのようである。こうして私たちは自らの語り方によって欺かれ、自己欺瞞に陥る。
書くことの意味について
私はあちらこちらへと思考が彷徨い、一貫した態度で生活に臨むことができない。その結果、私は自己嫌悪に陥る。だから、私は自分自身の思考を書き現すことで、自分自身の思考の道標を立てておきたい。