自己認識の方法

自己認識を単なる主観ではなく、客観として把握する術は存在する。自分ではいくら正しい人間であると思って公明正大に振る舞っていても、いざ誰の目のないところでは他のものに手を付けるようでは「正しい人」とは言えない。彼は一見正しい人であるように見えるけれども、実は最初から不正の人だったのである。

徳と習慣

自己を確立させるため必要なのは、外的な幸福ではなく、徳である。しかし、このことを本当に認識することは難しい。たとえば、「過度の飲食は避けるべし」といっても、これを抑えようとすると、とたんに反論や例外を申し立てる無数の言論が発生する。その一つ一つについて吟味し、真に納得するのでなければ実行は難しい。このことは実践において試される。ただ、よい習慣を身に着けることだけが、これらの問題を解決し得る。そして、よい習慣を身に着けるには、環境を選ぶことが肝要だ。実践的な場面では、何が通用するのかしないのか、何が良い習慣かそうでないかを判定することは比較的容易であるから。

「本当の自分」とは

「本当の自分」とは何か。それはどこかに存在している「核」のようなものではなく、自ら作り出すものではないだろうか。「自分がどうありたいか、あるべきか」これが「本来の自分」と呼ばれるものであり、理想のことである。ただ、その理想を考えるためには、現在の自分である前に、そもそも自分はどうだったのか、どうしたかったのか、を過去に遡って考える必要がある。どんな出来事のために、何に苦しんでいるのか、何がうれしいのか、そうしたことを省察する必要がある。そうして得られた自己認識に基づきつつ、あるべきすがたをクリアに思い浮かべられるようにする。何が障害となっていて、自分の可能性を止めている原因を模索する。

罪の本質

自分は何でも意のままに行動し、選択できるはずなのに、気が付くと環境に振り回されてしまっている。あるいは、自ら望んでした行為のはずなのに、意に反してしまっている。そのような時に私は自己を喪失してしまっている感覚に襲われる。罪と呼ばれる体験の構図はこれである。

心の中の怪物について

得体のしれない怪物が心の中に住み着いていて、それが私に絶え間なく暴力をふるうのだとすれば、私には勝ち目はきっとないだろう。しかし、その怪物の正体を見極めることは私にはできるのではないだろうか。そのことで、問題が胡散霧消するわけではないとしても、現実は少しも変わらないとしても、そのとき私はそこに光を見出すことができるだろう。現実は暴力的だ。この圧倒的な暴力に晒されながら、自分を律することができる人はまず存在しないだろう。理性は結局は自分の無力を思い知らされるだろう。しかし、認識の努力を怠らないことは理性にはできる。理性には自分を脅かすものの正体を見極めることができるはずであり、この精神的態度こそが、勇気であり、克己節制なのではないだろうか。

真理について語る言葉

個々の経験の本質を言葉で捉え、これから起こる出来事について見通しを立てる。そこから個々の経験を超えた真理について人は語ろうとする。だからあらゆる思想の出発点にあるものは、個別的な経験である。真理について語ることは、しばしばもはやその先にいかなる新たな経験もないことを断定するかのようである。こうして私たちは自らの語り方によって欺かれ、自己欺瞞に陥る。

書くことの意味について

私はあちらこちらへと思考が彷徨い、一貫した態度で生活に臨むことができない。その結果、私は自己嫌悪に陥る。だから、私は自分自身の思考を書き現すことで、自分自身の思考の道標を立てておきたい。